サッカーのワールドカップ(W杯)の舞台、南アフリカでは、アパルトヘイト(人種隔離政策)が崩れ1994年、
マンデラ氏が黒人初の大統領となった。翌95年に自国で開催されたラグビーW杯で、
優勝した南ア代表チームの黒人選手は1人だった。それから15年、今大会でピッチに立つ白人選手も1人だ。
ラグビーとクリケットは白人、サッカーは黒人というスポーツの壁が、今も「虹の国」を分断している。
「ブース!」。南ア代表チームで「キリン」の愛称をもつ長身のディフェンダー、
マシュー・ブース選手(33)がボールに触る度、観客席からは熱狂的な声援があがる。
白人であるブース選手は黒人層に絶大な人気を誇り、今大会の超大型ポスターのモデルにもなった。
かつて英国の自治領だった南アでは英国と同様、ラグビーやクリケットは白人富裕層に普及した。
ボール一つあればどこででも楽しめるサッカーは、黒人社会にも広がった。
アパルトヘイト時代は人種ごとに4つのリーグが設立され、試合も別々に行われていた。
80年代に緩和措置としてリーグは1つに統合されたが、
黒人との交流を嫌った白人社会からはプロチームや少年チームが姿を消した。
5歳でサッカーを始めたブース選手は、黒人居住区のチームに交じりプレーした。
彼は「人種隔離政策に違反していたが、アマチュアのサッカー選手だった父が勇気づけてくれた」と英BBC放送に語っている。
南アフリカ人種関係研究所のマリオ・ルート氏は「白人は黒人の観客で埋まるサッカーの試合に足を運ぶのを恐れ、
黒人は逆の理由でラグビーの試合を見に行きたがらない」と語る。
南アでは黒人が全人口の8割を占める。だが、2007年ラグビーW杯で2度目の優勝を飾った南ア代表チームも、
代表選手30人のうち黒人は6人だけだった。白人選手が黒人選手との同室を拒否していた事実も発覚し、
欧米メディアは「人種の壁は崩れていない」と書き立てた。
1995年ラグビーW杯では、当時のマンデラ大統領が、
白人のフランソワ・ピナール主将の背番号がついたジャージーを着て優勝杯を渡した。
ピナール氏は「強烈な幸福感に包まれた。次の朝起きると私たちは一つになっていた。
あの時、南アの民主主義は1歳だった。16歳になった今日までに南アは多くのことを達成した」と胸を張る。
ただ「今後もサッカーは黒人、ラグビーは白人が優勢であり続けるだろう。
それは差別ではなくスポーツの特性と文化に根ざすものだ」との見方を示す。
在ヨハネスブルクのシンクタンク、政策研究センターのオーブレイ・マットシキ氏は
「白人のサッカーファンは衛星放送で欧州リーグを、黒人は国内リーグを観戦している。
W杯をきっかけに白人も黒人も一つのスタジアムで国内リーグを応援するようになることを願ってやまない」と話す。
http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/100611/mds1006112002009-n1.htm
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